2005年10月13日

人権擁護法案について(感想編)

平成十七年十月十二日・・・
鳥取県で人権侵害救済条例が可決されました。

人権擁護法案の危険性について・・・は、いまさら私が
述べるまでもないでしょう。
「?」な方は【資料編】をご覧ください。

ここでは正直な感想を書こうと思います。私は今日
偶然、次のような「中央日報」の記事を目にしました。

韓国の出産率、世界平均の半分にも及ばず

中央日報は韓国の新聞でしょうが、日本では珍しい
「ネットから書き込めるコメント欄」が記事に
ついているのです。私は、ただの興味本位から
そのコメントを見てみたのですが

「そのかわり「強姦率」は世界平均の倍以上ありますから」
「先進国の出産率は低い。韓国の出産率も低い。
 よって韓国は先進国。という三段論法を立てて
 満足している。もうすぐ長期不況が来て、極貧国に
 脱落し、川で死体が次々と流れていくのも知らないで」
「 おめでとう、先進国並みになったんじゃないか・・・
 もしかしたら、朝鮮民族は晴れて絶滅危惧種になった
 ということかな。別に危惧はしないし邪魔もしないから
 静かに消えて下され」

というようなコメントが並んでいるのを見て、正直
驚いてしまいました・・・。
(もちろん、真面目?なコメントもあるわけですが)


まあ私などは、ネット初心者です。
今頃こうしたのを目にして驚くのは、初心者の証
でしかないのでしょう・・・。
それは事実ですから事実として認めるとして
「剥き出しの自由」の凶暴さ・・・を、ようやく知った
ということですね(汗

そして人権擁護法案に話を戻します・・・。
人権擁護法案を推進する立場の人は、やはりこうした
「剥き出しの自由」な言論をなんとか規制したい
・・・と思っているのではないかと想像したのです。
(上に挙げた匿名のコメントなどは、人種的民族的
 差別という点から、まさに同法案が規制しようと
 している言論だと思ったのです) 
人権擁護法案・・・に限りませんが、ネットでの
発言の自由に枠をはめよう・・・という動きがあり
それに対して、ネット側からも反対運動が広がって
いるようです。
2チャンネルに代表されるネット側から反対運動が
起きている・・・のは、まさにこの「剥き出しの自由」
を謳歌しているのが、ネット界の人々だから・・・と
解釈しても的外れではないと思います。

差別や中傷・・・あるいは広義に人を傷つけること・・・と
言論の自由。
これは本当に難しい問題です。

他人を傷つける言動をすべきではない・・・というのは
いわば道徳的な規律・・・だと思うのです。
ネット(に限りませんが)で発言するひとりひとりが
本来は、自分自身に対して、課すべき責務・・・では
ないでしょうか。
そして法律で禁じることは本質的に無意味なのだと
思うのです・・・。

少し前に、痴呆という名称は侮蔑的であるから
認知症と言い換えましょう・・・という報道がありました。
それ以来一斉に、大手メディアからは「痴呆」の
文字が消え、「認知症」に変わりました。
実は「痴呆」の前は「ボケ」だったのですよね。
ボケが侮蔑的なので痴呆に、そして今度は認知症に・・・。
こうした言いかえを、馬鹿馬鹿しいと思わない人が
いるんでしょうかね・・・?
認知症の人々の人権が重要なのはもちろんですが
名称を変えることでその人権を保護することに
少しでも寄与するのでしょうか。
社会全体に、認知症の人々を疎んじたり、社会の
お荷物だと感じる「空気」がある限り
認知症の人々への侮蔑視はなくならないでしょう。
いずれは認知症という言葉も「侮蔑的」だとして
別の言葉に置き換わるに違いありません・・・。

同じことが差別にも言えると思うのです。

鳥取県条例では「人種等を理由として行う不当な
差別的取り扱い、差別的言動」を禁じ
「『人種等』とは人種、民族、信条、性別、社会的身分、
門地、障害、疾病、性的指向をいう。」と
高らかに宣言していますが(資料編参照)
社会全体の中に、特定の人種やら民族やら信条やら
(以下略)・・・の人々を、疎んじる空気、がある限り
彼らを差別したり中傷したり傷つけようとする
言説は、なくならないのではないかと思います。

つまり・・・差別というのは、本来的に、人間の心の中の
出来事であって、それを法律で禁じたり罰したり
・・・ということが、可能なのか、どうか・・・。
そのように思うのです。
人間の心の中の出来事・・・なにをどう考えるか
なにを好み、なにを嫌うか・・・という
嗜好や志向(べつに洒落じゃありませんが!)を
法律で変えよう・・・変えられる、という発想は
なんだかグロテスクじゃないでしょうか・・・?

どうしても法律で・・・と発想した結果が人権擁護法案
なのであり、だからこそ同法案はグロテスクなのだと
思います。


そしてもうひとつ、今度は別の角度からの感想を。
ネットは匿名の世界です。
そこでは「剥き出しの自由」が謳歌されています
・・・今のところ。
その結果、凄まじいことになっている・・・
(たとえば、死体やレイプの映像さえ手に入ったり
 自殺同行者を募集したり、殺人依頼を請け負う
 サイトが現れたり・・・)
と、聞きます。
そうした「剥き出しの自由」の蔓延と、昨今の
政府や政権側からの自由を規制する一連の動き・・・とは
おそらく無関係ではないのでしょう。

自由・・・と話を広げると広がりすぎてしまいますから
差別や人権の問題に的を絞ります。

人間は、たとえば匿名性を帯びるなどして
「剥き出しの自由」を手に入れた場合、匿名でない
場合に比べて、より差別的だったり、攻撃的だったり
するのでしょうか?
私には証明する手段がありませんが、直感的に
YES、と思うのです。
冒頭に紹介した中央日報へのコメントをした人は
もし、本名で、知人友人親戚らが見守る中でも
同じことを言えるでしょうか?
たぶん、言えないと思います・・・。
匿名だからこそ、「自由」に、発言できたのでしょう。

自由に・・・正直に・・・。
ネットという世界の中では、より正直に、より過激に
なるという傾向が、確かにあると思います。
そして多くの人々がネットというツールに出会い
より正直に振る舞った結果、ネットの中(の一部)では
目を覆いたくなるような酷い言説が飛び交う事態も
起きている・・・そういうことだと思います。

作用には反作用・・・。
自浄作用という言葉もありますが、完全に自由な
世界では、もし行き過ぎがあれば、それに反発する力も
自然と起きてくるはずです。
もし、Aという人物や集団に対して差別や中傷をする
サイトなり発言者がいたとして、それを目にした
その他大勢が、その発言が行き過ぎだと思えば
放っておいても、この差別発言への批判的な発言が
出てくるはずです。
ネットでの言論の規制に反対する人々は、おそらく
そうした自然の成り行き・・・反作用、自浄作用・・・を
重視する立場なのだと思います。

しかしこれは結局、数の論理に行き着くのですよね・・・。

ネット上の言論の大勢は、極めて公明正大に
つまりは民主主義(=多数決)的に、決まるのだと
思います。
その発言に共感する人が多ければ、アクセスが増え
引用やトラックバックも増え、その結果ますます
アクセスが増える・・・というように。
それはどこか市場経済の仕組みにも似ています。

完全に自由な市場経済では、貧者はますます貧者と
なる・・・はずで、だから政府が生活保護の仕組みを
作ったりするわけですが、ネットの世界でも
放っておけば弱者はますます弱者となる・・・でしょう。
この場合の弱者とは純粋に数が少ない人々
・・・マイノリティ・・・でしょう。
人権擁護法案で保護しようとしている人々
「人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、
疾病、性的指向」を見ると、性別を除けば、なるほど
マイノリティなのだ・・・と納得しました。
まあ、もともと、差別とは、多数派から少数派への
(非好意的な)眼差しを言うわけですから、当然と
言えば当然なのかもしれませんが。

人権擁護法案への反発の最大の動機は言論の自由を
制限しかねないところにあると思うわけですが
その「自由」の中身とはなにか・・・ということを
つきつめていくと、社会の多数派 VS 少数派 の
綱引きが、背後にあるように、思えてくるのです。
本来、言論の自由、とは、社会の少数派が自らを
守る砦として頼りにしていたものだと思うのですが
ネット界に注目する限り、逆の文脈で使われている
現状があるように思います。

そこがなんとも、面白い・・・というか
現代という時代を表しているのだろうと思いました。


この項・・・やはり難しいテーマで
長く書いたのにもかかわらず、私自身がまだ核心を
つけた、と思えません。
別の機会に、再挑戦するかもしれません(苦笑
posted by 水無月 at 04:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内(法律) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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